◇幸福についての考察
俺が見た限り、今生きてて楽しそうな人は一般的なコースから外れたことを積極的に実行している人であるというイメージがあり、実際知り合いを見ていてもそう思う。
一般的なコースというのは、特に考えもなしにとりあえず大学まで行って就職していくコースのことだ。
こういう人の基本的なスタンスは社会から与えられた方針の中から自分の進む道を選ぶものだが、社会が与えてくれる方針が100%自分に合ったものであるはずがない。
大学内のサークルも同じで、サークルについてどこか気に入らない点というのがほとんどの場合あるはずだ。時間が合わないとか、雰囲気がちゃらいとか。
それは既存のルールに自分を当てはめていくことだからだ。
だから自分が望むことを好きなようにやりたいと思ったら、サークル内で自分が主将になるかサークルを作るかしたほうが手っ取り早いのだ。
その中では自分がルールなのだ。
薬学部が勧める仕事は大学における研究職、民間企業に就職、官公庁に就職といったところだ。ほとんどの人はこの方針に対して自分を当てはめていく。
しかし環境に対して受身ではまず満たされることはないだろう。
今は一つのことを一生続けていくような時代ではないわけで、研究者としてできることは、講演や展示や雑誌の編集やテレビ出演や起業などいくらでもあるだろう。
自分の思い通りにやろうと思ったら環境に頼らずに自分から行動することだ。
個人は個人のルールにだけ従えば良いのだ。
ここまでの議論は少し考えれば分かるだろう。
これから幸福というものについてさらに掘り下げた議論を行う。
人が幸福について語るときしばしば異なる意味をごっちゃにしていると思う。
幸福の意味は次のようなものに分けられるだろう。
客観的状態として自分が恵まれた状態にあるか。例えば優れた才能を持っているとかいい友人を持っているとか寿命が長いとかいうことである。(以下、客観的幸福レベルと書く)
主観的に自分が満たされているか。環境がどうであれ、幸福は個人の精神状態で大体決まるものであろう。(以下、主観的幸福レベルと書く)
相対的に見て自分の状態がめぐまれているか。戦時中に比べたら今の人は良い状態の置かれているといったこと。(以下、相対的幸福レベルと書く)
相対的幸福レベルは何を基準にするかで変化するので、幸福の本質を捉えようとする場合あまり必要ではない。
さて、総合幸福レベル(客観的幸福レベル+主観的幸福レベル)が幸福の本質であると俺は考える。
客観的幸福レベル、主観的幸福レベルは両方とも変化するものでどちらがより重要な要素かという区別は特にない。客観的幸福レベルが高いと結果として主観的幸福レベルが高くなるということはあるが、主観的幸福レベルが高くても客観的幸福レベルが高くなるということはあまりないだろう。
両幸福レベルは人によってかなりの個人差がある。
だが客観的幸福レベルの要素に個人差がほとんどないものが存在する。
それは寿命である。
そしてこの要素の変革が未来の世界観構築において絶大な効果を発揮するものなのである。
不老不死を実現することで客観的幸福レベルが上昇し、かつ未来の無限の可能性に対する期待感を得ることで主観的幸福レベルも大幅に上昇する。
これが不老不死研究の最も大きな意義の1つだと思う。
それに長い時間を利用して何か大きなことに挑戦するということも可能であり、未来においては理想のライフスタイルを開発していくことができるだろう。
そして今までの幸福に関する哲学書は古いものになっていくだろうし、幸福について語る人もどんどん減っていくだろう。幸福を手にしている人間がわざわざそれについて語る必要もない。
そもそも人が幸福について語るのは幸福ではないからなのだ。
2.個性の開発
5.苦労したほうが得か、楽な生き方が得かについての不老不死的観点から見た見解
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